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神戸地方裁判所姫路支部 平成5年(ワ)54号 判決

原告兼原告坂本晃彦法定代理人親権者母 坂本邦子

原告 坂本晃彦 外三名

原告ら訴訟代理人弁護士 菊井豊

同 山田直樹

被告 坂本義郷

右訴訟代理人弁護士 米田泰邦

主文

一  被告は、原告坂本邦子に対し三三〇万円、原告坂本晃彦、同坂本行則、同長橋光子及び同川東純子に対し各一六五万円並びに右各金員に対する平成三年一一月二二日から支払済みまで年五分の割合による金員をそれぞれ支払え。

二  原告らの被告に対するその余の請求をいずれも棄却する。

三  訴訟費用はこれを八分し、その一を被告の負担とし、その余を原告らの負担とする。

四  この判決は、第一項に限り、仮に執行することができる。

事実及び理由

第一  請求

被告は、原告坂本邦子に対し金三〇〇〇万円、原告坂本晃彦、同坂本行則、同長橋光子及び同川東純子に対し各金八〇〇万円並びにこれらに対する平成三年一一月二二日から支払済みまで年五分の割合による金員をそれぞれ支払え。

第二  事案の概要

一  本件は、飲酒の上自転車で帰宅途中に路上で転倒して頭部を強打した亡坂本美智保(当時四六歳、以下「美智保」という。)が、救急指定を受けている被告設置にかかる病院に救急車で搬送され、入院の上被告により保存的療法を受けていたが、病態が悪化したため他の病院へ転送され開頭手術を受けたものの数日後に死亡した事実に関し、美智保の相続人らである原告らが、被告に対し、適切な時期に転医措置を怠った過失があることを理由として不法行為責任に基づき左記損害額のうちの一部(妻につき三〇〇〇万円、四名の子につき各八〇〇万円。合計六二〇〇万円)を請求している事案である。

1  美智保本人の死亡慰謝料

二五〇〇万〇〇〇〇円

2  美智保の逸失利益

六三九五万三〇三〇円

3  原告らの固有慰謝料

各一〇〇万〇〇〇〇円

4  原告坂本邦子の負担した葬儀費用

一〇〇万〇〇〇〇円

5  弁護士費用

(一) 原告坂本邦子につき

五〇〇万〇〇〇〇円

(二) 原告坂本晃彦、同長橋光子、同川東純子及び同坂本行則につき

各一〇〇万〇〇〇〇円

(合計一億〇三九五万三〇三〇円)

二  前提事実

1  原告坂本邦子(以下「原告邦子」という)は、平成三年一一月二二日に死亡した美智保の妻であり、原告坂本晃彦、同坂本行則、同長橋光子及び同川東純子(以下、順に「原告晃彦」、「原告行則」、「原告光子」、「原告純子」という)は美智保の子である(争いがない)。

被告は、坂本病院の名称で病院を経営する医師である(争いがない)。坂本病院は、救急病院の指定を受けているが、本件当時、脳内血腫等に対し開頭手術を行う物的・人的設備は備えていなかった(弁論の全趣旨)。

2  美智保は、飲酒の上自転車で帰宅途中、路上で転倒しているところを第三者に発見され、日曜日である平成三年一一月一七日(以下、単に月日のみで表記する場合はすべて平成三年であり、時間のみで表記する場合はすべて平成三年一一月一七日の事実である)午前二時四〇分ころ、救急車にて坂本病院に搬送された(原告坂本邦子本人尋問の結果により真正に成立したものと認められる甲第一号証、成立に争いのない乙第一、第二号証、被告本人尋問の結果)。

右時点において、美智保の呼気にはアルコール臭が認められるとともに意識不明状態で痛覚に反応するが覚醒しないとの意識障害が認められた(前掲乙第一、第二号証、被告本人尋問の結果)。

3  搬入後、被告が美智保を診察し、頭部エックス線撮影を行ったところ、右側頭骨に骨折が認められたことから、更に頭部CT検査を実施し(以下「第一回CT検査」という)、左前頭葉と左側頭葉に挫傷を認めた(争いがない)。

4  午前一〇時三〇分ころ、被告が美智保を診察したところ、美智保の舌根が沈下気味であったことから、被告は、気管内挿管により気道確保を行った。右に引き続いて午前一一時ころ、被告が二回目の頭部CT検査(以下「第二回CT検査」という)を実施したところ、美智保の左前頭葉内に出血が認められ、左側頭葉の脳挫傷所見も拡大していて左脳浮腫による右方変位が認められた。そこで、被告は、第三次救急医療施設である兵庫県立姫路循環器病センター(以下「循環器病センター」という)脳外科の当直医である谷本敦夫医師(以下「谷本医師」という)に電話連絡して美智保の収容を依頼した。しかし、循環器病センターからは満床を理由に右時点では収容できない旨の回答がなされた(第二回CT検査の実施時刻については前掲乙第二号証及び被告本人尋問の結果。循環器病センターの医師の氏名については弁論の全趣旨により真正に成立したものと認められる乙第三号証。その余の事実は争いがない)。その際、被告は、谷本医師に対し、美智保の治療方針に関し手術適応の有無に関する助言を求めた(争いがない)。

5  午後五時三〇分ころ、被告は、三回目の頭部CT検査(以下「第三回CT検査」という)を実施したものの、午後六時ころ、美智保の病態が急激に悪化したことから、転医措置を取った。そして、美智保は、午後六時五〇分ころツカザキ病院に救急車で搬入され、午後八時ころ同病院において緊急開頭手術を受けたが、その後も意識が回復することなく一一月二二日午後一時五七分に死亡した(争いがない)。

三  争点

1  美智保の死亡原因について

(原告)

美智保は、脳挫傷による脳浮腫の進行及び脳内血腫の増大により脳内圧が亢進したことから脳ヘルニアの状態に至り、その結果、脳幹部の機能障害が進んだことにより脳死状態に陥ったために死亡したものである。すなわち、脳挫傷が契機になってはいるものの、適切な時期に適切な外科的措置が取られなかったために呼吸・循環等の生命をつかさどる脳幹部分が脳ヘルニアにより不可逆的に破壊されて死亡したものであり、美智保の直接の死亡原因は脳ヘルニアというべきである。

(被告)

ツカザキ病院の死亡診断書でも直接の死因は脳挫傷であり、左側前頭葉、側頭葉に著明な脳挫傷があったことが指摘されている。脳挫傷には脳浮腫、脳腫張が合併するが、この脳浮腫、脳腫張は一時的には挫傷自体による脳組織の虚血、低酸素症に基づいて発生する。その合併は脳虚血、低酸素症を促進して病態をより悪化させる。脳挫傷自体は致命的な場合もあるのであって、本件における美智保の死因もこの脳挫傷によるものである。

2  被告の転医義務違反について

(原告ら)

(一) 一般的に頭部打撲で意識を喪失している患者を治療する医師は、脳内出血の進行を注視して頭蓋内圧亢進、脳ヘルニア等の致命的症状が生ずることがないように注意する必要がある。特に患者に頭部骨折が認められる場合には、頭部骨折を伴わない場合に比較して頭蓋内出血の確立が高く、したがって病態の進展を注視するためにより短い間隔で繰り返しCTスキャンによる撮影を行いながら診察に当たることが必要である。そして、脳挫傷及び脳内出血の拡大が認められる場合には、保存的療法を漫然と続けることは許されず、当該医師は、適切な外科的手術を行うかあるいはそれを行いえない場合は直ちに脳外科手術の可能な病院に転送すべき義務を負うことになる。

(二) 本件において、被告は、美智保の入院直後の午前二時四〇分ころにレントゲン写真を撮影して右側頭部骨折を認め、又、第一回CT検査により左前頭葉、左側頭葉部に脳挫傷を確認している。第一回CT検査によれば左側外傷性くも膜下出血が既に存在していたところ、第二回CT検査ではより顕著な外傷性くも膜下出血及び硬膜下血腫が存在し、その上脳の顕著なシフトが見られるようになっており、明らかに典型的な天幕ヘルニアの状態にあった。このような場合、それまでの保存的療法では救命の可能性が極めて低く、死亡の結果を回避するためには、可及的速やかに頭蓋骨の一部を外して減圧措置、血腫除去及び止血措置等の外科的手術(以下「本件外科的手術」という。)を行うことが必要である。現に被告自身も第二回CT検査によって美智保の左前頭葉内血腫、左側頭葉部脳挫傷及び脳浮腫、右方移動傾向を、又、舌根沈下気味になり気管内挿管の措置を講ずるほどの呼吸状態の悪化を認め、自ら転院の手配に着手していた。被告自身では本件外科的手術を行いえなかったのであるから、被告は、遅くとも第二回CT検査の結果が判明した時点において、直ちに美智保を脳外科手術の可能な病院に転送すべき義務(以下「本件転医義務」という。)を負っていた。

(三) しかるに、被告は、循環器病センターのリカバリーベッドが満床であったとの回答を受けたこと及び同センターの谷本医師から「現症状、CTでは内科的にフォローアップが可」との助言を受けたことから、それ以上他の脳外科手術の可能な病院へ転院に関する連絡を取ることなく、その後も午後五時三〇分まで何ら脳に関する検査を行うことなく美智保を放置していたものである。姫路市内には、循環器病センター以外にもツカザキ病院、阿保病院、中央病院等脳外科手術に対応しうる複数の病院があるにもかかわらず、被告は、右各病院に連絡を取ることなくそれ以上の転医の手配を怠ったのであるから、被告には本件転医義務に関する過失がある。

この点につき、被告は、脳神経外科の専門医である谷本医師から前記助言を受けたためにそれ以上転医措置を講ぜす、循環器病センターからの受入れ可能との連絡を待っていたものであり、右理由により転医措置を講じなかったとしても被告に過失があったとはいえない旨反論する。しかしながら、一般的に治療方針の決定においては、詳細な臨床症状と臨床経過を把握し、かつ頭部CT写真を実際に目で見なければ正確な判断はおよそ不可能である。電話により得られた限られた情報から大まかな臨床症状と臨床経過の把握しかしておらず、かつ頭部CT写真を実際に目で見ていない専門医からの助言を得たからといって、それに従った被告に正当化事由があるとはいえないし、そもそも本件における被告の谷本医師に対する説明内容は、美智保の症状を的確に伝えるものではなく、被告は谷本医師に対して不完全な説明を行ったに過ぎないから、そこから導かれる同医師の判断も当然不正確なものとならざるを得ない。したがって、右判断を被告が信頼したとしても被告に過失がなかったことにはならない。

(被告)

(一) 本件のような脳挫傷の治療は、全身状態の維持・改善にも留意しながら、十分な呼吸管理を行い、併せて内科的に頭蓋内圧亢進防止の努力を行う保存的療法が原則であって、すべての脳挫傷に外科的治療が必要となるものではない。

本件でも、被告は、入院直後から心電図モニターで循環動態を連続監視し、膀胱内バルーンカテーテル挿入による尿量のチェックを続け、血液ガス・血液一般・生化学検査などを二回、頭部CT検査を三回それぞれ施行し、他に呼吸管理、脳圧降下療法、輸液療法、薬剤投与などの保存的療法を実施していた。

又、本件では、第二回CT検査により、脳室内血腫が増大し、脳浮腫も進行して約二センチの正中偏位と中脳周囲脳槽の変形・消失が認められてはいるが、これらの症状から直ちに手術適応が肯定されるわけではなく、それ自体として適応基準を満たしていても、症状、所見が手術適応基準よりも大きく進んでいれば、手術の効果も期待できなくなるので、その程度によっては無益な侵襲を避けるために逆に手術適応が制限される場面もありうる。又、鑑定人の意見(本件において第二回CT検査後に緊急開頭手術が行われても、美智保の予後については、七〇パーセントの確率で死亡又は重度後遺症が残り、残り三〇パーセントの確率のうち一〇パーセントは労働不能で、二〇パーセントは日常社会的に大きなハンディをもたらす後遺症を残す)に照らすと、本件外科的手術を行った場合、脳ヘルニアによる死亡を回避する手段とはなっても、脳挫傷による障害が改善される見込みはなく、死を引き延ばす程度に終わる確率が高く、このような手術成績の内容の悪さを考慮すると、患者家族が希望をしても効果の乏しい手術を拒否する医療の選択肢も残されている。

(二) 加えて、本件では、第二回CT検査の後、被告において循環器病センターに電話連絡して美智保の受入れを求めたところ、リカバリーベッドが満床であるとの回答を受けたことから右時点では転医できなかったが、リカバリーベッドが空き次第受け入れてもらえるように希望している。又、被告は、その際、循環器病センターの専門医に対し、患者が早期に搬入され、頭部エックス線検査で頭蓋骨骨折、第一回CT検査で血腫や正中偏位もない左前頭及び側頭葉部脳挫傷を認め、保存的治療を続けていたが、意識障害は改善せず、舌根沈下気味になり気管内挿管による気道確保を要する状態になったこと、第二回CT検査では脳挫傷所見が拡大して血腫も形成され、脳浮腫の増大により右方正中偏位も認められるようになったこと等、専門医の判断上必要な事実を伝えた上で保存的療法が可能か否かの助言を求めたところ、同センターの谷本医師から保存的療法が可能との情報を得たことから、専門医である同医師の見解を信頼して循環器病センターからの収容連絡を待ちながら保存的療法を継続したものである。一般救急外科医である被告は、右行為により転医に関する義務を果たしており、被告には、第二回CT検査後の時点で更に他の専門施設への転院を努力する義務はなかった。

(三) 以上のとおり、本件において美智保の手術適応の観点からもともと被告には転医義務違反は存在しなかったといえるし、仮に本件転医義務違反の事実があったとしても、専門医の見解を信頼して転送しなかった被告に過失はなかった。

3  因果関係等について

(原告)

本件では、第二回CT検査時には、既に美智保は典型的な天幕ヘルニアになっており、保存的療法では救命の可能性が極めて低く、早急な外科的措置以外に救命の可能性はない状態になっていた。

しかるに、美智保は、被告が本件転医義務に違反したことにより、脳ヘルニアが進行し、その結果、脳幹部の機能障害が進み更に脳死状態に陥ったために死亡したものである。又、少なくとも、被告は、本件転医義務に違反したことにより、美智保から手術可能な病院に転院の上適切な治療行為を受ける機会を奪ったものである。

(被告)

第二回CT検査後に手術可能な病院への転送手続が行われた場合における美智保の予後につき美智保の死亡率を四〇パーセントとする鑑定書の記載に照らすと、本件では、第二回CT検査の後、美智保を直ちに手術できる専門医療施設に収容することができたとしても、必ずしも救命できたとはいえないから、第二回CT検査の時点で美智保につき転医措置を講じなかった被告の行為と美智保との死亡との間に因果関係があるとはいえない。

4  損害額

第三  当裁判所の判断

一  争点1について

前掲乙第一、第二号証、原本の存在及びその成立に争いのない甲第五号証、証人江原一雅の証言、被告本人尋問の結果並びに鑑定の結果によれば、美智保は、頭蓋骨の線状骨折を伴う頭部打撲により左前頭葉及び左側頭葉に生じた脳挫傷が原因となり、脳浮腫が進行するとともに脳内血腫が増大したことにより脳内圧が亢進し、その結果、天幕ヘルニア、更にはより重篤な大孔ヘルニアの状態に至ったため、開頭手術により硬膜下血腫が除去され、それにより、頭蓋内が減圧されるの等の措置を受けたにもかかわらず、延髄等の脳幹部が障害を受け、最終的に脳死状態となったことにより死亡したものと認められる。

右によれば、脳挫傷は、脳ヘルニア発症の契機とはなってはいるものの、それ自体直接の死亡原因とはいえず、美智保の直接の死亡原因は脳ヘルニアであるというべきである。

二  争点2について

1  前記第二の二「前提事実」記載の事実に前掲甲第一、第五号証、乙第一、第二号証、成立に争いのない甲第三号証、弁論の全趣旨により真正に成立したものと認められる甲第二号証及び乙第四号証、証人江原一雅の証言、原告坂本邦子及び被告各本人尋問の結果、鑑定の結果並びに弁論の全趣旨を総合すると、美智保の症状及び治療経緯等につき以下の各事実が認められる。

(一) 一一月一七日未明、美智保は、飲酒の上自転車で帰宅途中に兵庫県揖保郡御津町中島の当時の自宅近くの路上で転倒しているところを第三者に発見され、午前二時四〇分ころ、救急車にて坂本病院に収容され、右により美智保と被告との間に美智保の頭部外傷等に関する準委任契約たる治療契約が締結された。

(二) 被告が美智保を診察したところ(以下「本件初診」という。)、美智保の呼気には強いアルコール臭が感じられた。又、美智保は意識障害の状態にあり、その意識障害のレベルは、ジャパン・コーマ・スケールの評価(以下「JCS」という。)で二〇〇点(痛み・刺激に対しては体動するものの覚醒のない状態)であった。右当時の美智保の身体状態は、右耳からの出血と体動が認められ、対光反射はないものの、瞳孔の不同及び散大はいずれも認められず、血圧は最高一二〇mmHg/最低六〇mmHg、脈拍は毎分八〇回で不整はなく、呼吸にも異常は認められなかった。

(三) 右搬入後、被告が美智保に対し頭部エックス線撮影を実施したところ、同人の右頭頂骨及び側頭骨に数本の線状骨折が生じていることが判明したことから、被告は、頭部挫傷を検査する目的で第一回CT検査を実施した。右時点において、美智保には左前頭葉下部及び左側頭葉前部に斑状の小さな脳内出血を伴う脳挫傷、左大脳半球表面から左シルヴィウス裂及び迂回槽から四丘体槽に軽度の外傷性くも膜下出血、四ないし五ミリの正中偏位及び右側頭骨の線状骨折部に硬膜外血腫又は硬膜下血腫の可能性がある厚さ五ミリ以下の血腫が生じていたものの、未だ明らかな脳ヘルニアの状態には至っていなかった。

なお、被告は、右CT検査の撮影写真により、左前頭葉及び左側頭葉の一部に脳挫傷が生じていることは認識できたが、右血腫及び正中偏位については認識していなかった。

被告は、同人において認識し得た美智保の右各症状を検討の上、当面は保存的療法により治療を行う方針を決め、一般病室への入院措置を取った上、美智保に対し、酸素投与量を毎分五リットルとする酸素療法を開始するとともに、導尿(バルーン)を確保して脳圧降下剤(グリセオール)、抗生物質(セフメタゾン)及び抗潰瘍剤(ガスター)等を点滴により投与した。

(四) その後、午前四時三〇分及び同五時一〇分の時点では、美智保の症状に著明な変化は生じていなかったが、午前六時一五分には美智保に右手麻痺の症状が生じた。午前七時の時点では、美智保に痛覚は残っているものの、脈拍は毎分四五ないし四九回と徐脈が発現し、又、右側半身麻痺の症状が生じていた。午前一〇時における美智保の脈拍は毎分七〇ないし九〇回と徐脈は消失していたが、血圧は最高一六五mmHg/最低八五mmHgと軽度の血圧上昇が生じていた。

この間、警察官から自宅に連絡を受けた原告邦子が午前五時ころ、又、美智保の実姉の細田智枝が午前一〇時ころ、原告行則が午前一〇時三〇分ころそれぞれ坂本病院に到着した。

(五) 午前一〇時三〇分ころに被告が行った診察では、美智保の意識レベルはJCSで一〇〇点(痛み・刺激に対して払いのける動作を行う)ないし二〇〇点の状態にあり、対光反射はないものの、瞳孔の不同はなく、血圧は最高一六〇mmHg/最低八〇mmHgとやや高めであったが、徐脈は改善され、自発呼吸が行われていた。被告は、美智保の舌根が沈下気味であったことから気管内挿管して気道確保を行い、酸素投与量を毎分五リットルと設定した。午前一一時ころ、被告は第二回CT検査を実施した。その所見によれば、右の時点において、美智保の左前頭葉及び左側頭葉の脳挫傷が進行したため脳浮腫が憎悪したほか、左前頭葉及び左側頭葉の脳内血腫も増大し、左前頭葉の血腫は直径約三センチ×二・七センチ×三センチの大きさとなっていた。更に、左側頭葉表面に薄い硬膜下血腫が存在し、第一回CT検査時と同程度の軽度のくも膜下出血があり、正中偏位は約二センチと極めて大きく、中脳周囲脳槽の状態とも合わせると美智保の脳は典型的な天幕ヘルニアの状態となっていた。

なお、被告は、第二回CT検査の撮影写真から左前頭葉部にCT写真の断面写真で二ないし三枚にわたる大きさの血腫、左側頭葉部に脳挫傷と浮腫の増大及び左から右方向への移動変化があり、美智保の症状が悪化傾向にあることを認識したが、硬膜下血腫及びくも膜下出血の存在並びに右時点で天幕ヘルニアの状態となっていることは認識していなかった。

美智保は、第二回CT検査を受けたのち、午前一一時二五分ころ病室に戻った。

(六) 被告は、第二回CT検査実施後、同人において認識し得た美智保の右各症状を検討し、右時点で美智保が直ちに外科的手術を要する状態にあるとは考えなかったものの、外科的手術適応の可能性を考慮し、原告邦子ら美智保の親族に転送の承諾を得た上、午前一一時ころ、循環器病センター脳外科に電話連絡して美智保の収容を依頼したが、同センターの谷本医師から、循環器病センターのリカバリーベッドが満床であることから現在収容できない旨の回答がなされた。

その際、被告は、谷本医師に対し、概要次のとおり美智保の症状を口頭にて説明した上、美智保の治療方針に関し保存的療法の継続の適否及び外科的手術適応の必要性に関する助言を求めた。

(1) 該当患者は、当日午前二時四〇分ころ救急来院した者であり、受傷後二、三時間経過していた。多量飲酒後に自転車で転倒したことが受傷の原因と思われるが、詳しい原因については不明である。

(2) 右患者は、来院時から意識不明、対光反射はないものの、瞳孔の不同はなく、自発呼吸もある。血圧は安定しており、第二回CT検査時に舌根が沈下気味であったことから、現在は気管内挿管により酸素投与を行っている。

(3) 来院時の頭部エックス線撮影により頭蓋骨骨折が、第一回CT検査により左前頭葉及び側頭葉部に脳挫傷が認められたが、血腫の形成もなく、現在まで保存的療法にて経過観察していたところ、第二回CT検査により左前頭葉部にCT写真の断面図で二、三枚にわたる出血が確認できたほか、左側頭葉部の挫傷と浮腫が増大し、左から右へのシフトが認められるようになった。

これに対し、谷本医師が、被告の説明に基づくと保存的療法が可能と思われる旨の見解(以下「谷本見解」という。)を示したことから、被告は、右谷本見解を信頼して保存的療法の継続を決めるとともに、循環器病センターのリカバリーベッドが空き次第受け入れてもらえるよう要望した。そして、谷本医師において右被告の要望を承諾したことから、被告は、谷本医師に対し、病状や検査結果に変化を来した場合には再度連絡する旨伝えて電話連絡を終え、原告邦子ら美智保の親族に右経緯を説明するとともに保存的療法を継続する旨伝えた。

(七) 午後一時ころ、美智保の脈拍は毎分七〇ないし八〇回であったが、呼吸数は毎分三六回と頻呼吸の状態にあり、血圧は最高一七五mmHg/最低一〇五mmHg、体温は三八度一分と血圧及び体温はともに上昇傾向にあり、氷により美智保の身体を冷やす措置が取られたが、午後二時には、呼吸数は毎分三六回と依然として頻呼吸の状態にあり、血圧は最高一九四mmHg/最低一一三mmHg、体温は三八度九分と血圧及び体温ともに更に上昇するなど、著明な脳圧の亢進によるクッシング現象が生じていた。又、美智保には痛覚は残っているものの、四肢冷感と顔面に軽度の痙攣が生じていた。午後三時三〇分ころの美智保の血圧は最高一九三mmHg/最低一〇五mmHgで、体温は三九度、午後四時三〇分ころ美智保の呼吸数は毎分二四回と頻呼吸は治まっていたが、血圧は最高一八〇mmHg/最低九七mmHgで、体温は三九度であった・

この間、被告は、午後二時三〇分ころに美智保を診察したが、美智保の病態が午前中の病態に比較して更に悪化していることについて明確な認識を持たず、カルテにも「変化なし」との記載を行い、発熱に対しメチロン、ボルタレン等の解熱剤の投与を新たに開始した以外は、従前とほぼ同様の保存的療法を継続した。

(八) 被告は、午後五時三〇分ころ、診察を行い、経過観察の一環として第三回CT検査を実施した。右の時点で、美智保の脳内血腫は第二回CT検査時に比較して更に増大し、左前頭葉の硬膜下血腫も増大し、脳浮腫も進行していた。

被告は、右結果を受けて再度循環器病センターに電話連絡して美智保の受入れが可能か否か確認したが、循環器病センターからは依然リカバリーベッドが満床で患者の受入れができない旨の回答を受けた。

(九) 美智保が検査室から病室に戻された直後の午後六時過ぎ、美智保は呼吸停止状態に陥った。右のころ美智保の血圧は最高二五六mmHg/最低一二〇mmHgとなっていた。午後六時五分ころ、看護婦から連絡を受けて病室に来た被告は、右事態に対する措置として美智保に人工呼吸器を装着したが、同一五分ころ美智保に急激な血圧の低下が出現したことから、強心剤(クリトパン)等が投与された。

(一〇) このころ、ツカザキ病院から転送の同意が得られたことから、被告も同乗して人工呼吸を行いながら救急車で美智保をツカザキ病院に搬送し、午後六時五〇分ころツカザキ病院に到着した。右時点における美智保の意識レベルはJCSで三〇〇点(痛み刺激に全く反応しない状態)と悪化し、両側瞳孔は散大し、対光反射及び脳幹反射も消失していた。

(一一) ツカザキ病院に到着後、同病院の医師から原告邦子らに対し、外科的手術を実施しても美智保の予後は悪く、死亡もしくは植物人間となる可能性が高い旨の説明がなされたものの、原告邦子らが手術の実施を希望したことから、麓医師らにより午後八時二〇分から開頭手術が行われ、硬膜下血腫の除去等の内外減圧を行い、午後一〇時四五分ころ右手術は終了した。

右手術後、一一月一八日、一九日の二日間は、一時的にJCSで二〇〇点まで意識障害の程度が回復した時期もあったが、一一月二〇日からは悪化し、死亡時までの意識レベルはJCSで三〇〇点の状態にあった。一一月二二日午前一一時ころには、血圧が著しく低下し、心停止状態が発現したため、心マッサージ、強心剤の投与等の蘇生術が施されたが、同日午後一時五七分に美智保の死亡が確認された。

なお、本件初診時から死亡するまでの間に美智保の意識が覚醒した時期はなかった。

(一二) 本件当時、坂本病院は、常勤医師四名、非常勤医師二名、看護婦は常勤とパートを合わせ約三五名の人員により運営されていた。又病床数は八四床で、エックス線撮影、CTスキャン及びICU(集中治療室)の物的設備を備え、内科、外科、呼吸器科、循環器科等合計六種類の診療科目を標榜する第二次救急指定病院であった。

以上のとおり認定でき、他に前記(一)ないし(一二)の認定を左右するに足る証拠は存在しない。

なお、乙第三号証中には、谷本医師において、被告から外科的手術適応の有無に関する意見を求められ、被告による説明の範囲内の事実からは外科的手術適応に乏しい(結果は悲観的である。)旨の回答を行なった旨の記載もあるが、被告はその本人尋問において右の趣旨の回答を受けていない旨供述していること、同文書中の記載にもあるとおり、回答者自身も二年前の事実であって右記憶自体正確なものではないことを承認していること、又、後記3(二)で判断したとおり、午前一一時ころの時点において未だ美智保に相当程度の救命可能性が残っていたこと等に照らすと、脳外科専門医である谷本医師が被告からの説明により直ちに本件外科的手術の適応に乏しいとの見解を示すことは不自然であり、乙第三号証中の前記記載は、そのまま採用することはできない。

2  次に脳挫傷の一般的な臨床症状及び治療方法について検討する。

証人江原一雅の証言、被告本人尋問の結果、鑑定の結果及び弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認められる。

(一) 脳が外力を受けて損傷を生ずる脳挫傷は、前頭葉及び側頭葉にしばしば生じるが、右脳挫傷により動脈又は静脈の破綻をきたして脳内血腫や硬膜下血腫を生じることが多い。重篤な脳挫傷にあっては、当初から意識障害を伴うことが多いが、そうでない場合にも、時の経過により脳挫傷を原因として頭蓋内出血、脳腫張又は脳浮腫の増大など脳の病態が進展することにより頭蓋内圧が亢進し、天幕ヘルニアや大孔ヘルニア等の大脳ヘルニアの状態に至り、更には脳幹障害を招いて死亡する場合がある。

(二) 中等度以上の脳挫傷にあっては、ほぼ全例に意識障害が発現するが、受傷者にアルコール障害が生じている場合には、脳挫傷による意識障害とは区別しにくいことがある。意識障害の強さと持続期間は脳挫傷の損傷の程度とほぼ比例し、意識障害が初期より非常に高度の場合には予後も不良となる。

(三) 受傷直後から脳内血腫が認められる場合と、当初は多数の点状出血があり、六ないし一二時間以内に点状出血の融合や挫傷部の血管からの出血により頭蓋内血腫が形成される場合とがあるので、頭部CTスキャンにより脳挫傷と診断された場合には病態に応じて、その後も適時に頭部CTスキャンを施行する必要がある。

(四) 血圧、脈拍、呼吸等のバイタルサインは、頭蓋内血腫の増大あるいは脳浮腫の病態の進展に伴い変動する。頭蓋内血腫の増大あるいは脳浮腫の進行により頭蓋内圧が著しく高くなると、脳に十分な血液が循環しなくなり、そのことから、血液循環改善のための生体反応として脳幹反射により血圧が上昇し、同時に徐脈が発現するクッシング現象が現れることがある。又、頭蓋内血腫の増大あるいは脳浮腫の病態の進展に伴い身体の麻痺が発現することがあるが、右症状は脳の重大な障害の進行を意味する。なお、身体の片痳痺は、一般的に頭蓋内血腫の存在する部位とは反対側に生ずる。更に、意識障害の進展に伴い筋肉が弛緩することがあり、この場合舌根部の筋肉が弛緩して気道の奥に落ち込む舌根沈下の状態となることがある。

(五) 脳挫傷に対する治療方法としては、血腫などの合併症状がなく、脳挫傷に起因した脳浮腫、急性脳腫張を主体とする病態である場合あるいは血腫による圧迫が軽度である場合には、厳重な臨床症状の観察下に脳圧降下剤等の薬剤治療や呼吸・循環管理などの保存的療法を行うことになるが、天幕ヘルニアの状態に陥った場合には、外科的手術により血腫を除去して脳の内外圧を減圧する以外に救命可能性はない。しかし、脳挫傷そのものを治癒あるいは改善させる外科的手術はない。

(六) 脳挫傷、頭蓋内出血に対する一般的な外科的手術適応に関し、アメリカにおいてベッカー教授により提唱されている基準として

〈1〉 意識障害があり、かつグラスゴー・コーマ・スケール(「以下GCS」という。)の点数が一点でも低下する場合。

〈2〉 頭蓋内圧の上昇が二五mmHg以上で他の方法で改善しない場合

〈3〉 CTスキャンで五ミリ以上の正中偏位が確認される場合

〈4〉 CTスキャンで中脳周囲脳槽の消失、変形が確認される場合

〈5〉 厚さ五ミリ以上の硬膜下又は硬膜外血腫のいずれかが存在する場合

とするものがあり、又、一般的に直径三センチ以上の血腫が生じている場合には外傷性脳内出血の手術適応があるとされている。

(七) 右(三)のとおり、頭蓋内血腫は、必ずしも受傷直後から発現するものではなく、受傷後数時間経過した後に形成される場合があり、又、右(一)のとおり、頭蓋内血腫の増大あるいは脳浮腫が進行する結果、重度の意識障害を伴う脳ヘルニアに陥る危険性が常に存在するが、右症状の進行は、頭部CTスキャンにより把握することが可能であるし、又、病態の進展に伴いバイタルサインないしは神経学的所見に変化を生ずることから、脳挫傷の患者の治療にあたる医師は、初診当初の一時期における患者の症状を診察するだけでは十分ではなく、保存的療法を施行しつつ、外科的手術の適応の有無を判断する必要性からも、バイタルサイン及び神経学的所見の経時的変動を的確に把握すべきであり、特に重症の頭部外傷患者に対しては、少なくとも一時間ないし二時間ごとに意識レベル、血圧、呼吸、脈拍等のバイタルサイン、瞳孔、対光反射、四肢麻痺等の神経学的所見の観察を行うとともに、症状の進行に伴い適時に頭部CTスキャンを施行して頭蓋内血腫の状態を確認する義務を負っているものと解される。そして、後記三1において判断するところの脳挫傷の予後に照らすとき、医師としては、患者のより良好な予後、具体的には患者の救命率のみならず社会復帰の可能性を高めるため、CTスキャンの結果あるいはバイタルサイン・神経学的所見の変化から頭蓋内圧亢進あるいは脳浮腫の進行が認められ、保存的療法では症状悪化を防止しえないことが予測される場合には、脳ヘルニアが重篤な状態に至る前に直ちに本件外科的手術を行うかあるいは右手術を実施できない場合には、それが可能な脳神経外科専門医を擁する医療機関(以下「本件専門医療機関」という。)へ転送する義務を負うものと解される。

3(一)  そこで、次に本件転医義務違反の点について判断する。

前記1(五)認定の事実、証人江原一雅の証言及び鑑定の結果を総合すれば、第二回CT検査後の午前一一時ころにおける美智保の脳挫傷及び頭蓋内血腫は、前記2(六)記載の外科的手術適応に関する〈2〉及び〈3〉の基準を満たし、又、血腫の大きさからも十分に手術適応があったこと及び右時点で転送の上本件外科的手術を実施すればなお相当程度の救命可能性が残っていたことが認められるし、又、前記1(五)で認定したとおり、同時刻ころの美智保の脳の病態は、既に天幕ヘルニアの状態に至っており、前記2(六)判示のとおり、この場合には右の状態で保存的治療を継続しても救命可能性はなく、本件外科的手術により血腫を除去して脳の内外圧を減圧する以外に救命可能性はなかったこと、前記第二の二「前提事実」1記載のとおり、坂本病院では本件外科的手術に対応できないことからすれば、右午前一一時ころの時点において、被告には美智保を本件専門医療機関へ直ちに転送する義務があったということになる。

(二)  これに対し、被告は、第二回CT検査実施直後に循環器病センターに電話連絡して美智保の収容を依頼し、又、被告において谷本見解を信頼して収容可能な場合に連絡を受けることを前提に保存的療法を継続したものであるから、第二回CT検査実施後に循環器病センター以外の医療機関に対して転送手続を取らなかったとしても非難されるべきではない旨主張する。

しかしながら、前記(一)の認定によれば、午前一一時ころにおける美智保の病態は直ちに本件外科的手術を受けるために転医手続を必要とする切迫した状態にあったのであるから、具体的な収容見込みのないまま、循環器病センターからの連絡を待っていたからといって被告の過失を否定する理由にはならず、又、前掲乙第四号証、証人江原一雅の証言及び被告本人尋問の結果によれば、本件当時、姫路市内には循環器病センター以外にも複数の本件専門医療機関が存在していたことが認められるのであるから、美智保の当時の病態に照らすと、循環器病センターから収容不能との回答を受けた被告としては、直ちに他の本件専門医療機関に連絡を取るべきであったものと解され(現に本件でも休日にもかかわらず午後六時過ぎの時点でツカザキ病院は直ちに収容を承諾している。)、被告主張の事実のみをもって被告が本件転医義務を果たしたということはできないし、右程度の注意義務は、第二次救急指定病院における一般的な医療水準に照らして過大な責任を負わせるものとも考えられない。

又、谷本医師の助言を信頼したとの点についても、脳神経外科専門医といえども、的確な治療方針の決定に際しては、詳細な臨床症状と臨床経過の把握及び頭部CT写真を現実に見る必要があるものと解されるところ、本件で谷本医師は、被告の電話による概要説明のみによって見解を述べているのであるし、被告から天幕ヘルニアの発現、正中偏位の程度、硬膜下もしくは硬膜外血腫については知らされていない点で十分な資料に基づいて出された見解と評価することはできないところ、そのような概要説明に止まった原因は専ら被告自身の診断上の問題又は説明不足にあったというべきであるから、谷本見解を信頼したことを理由に被告の過失を否定することはできず、右に関する被告の主張も又採用できない。

(三)  更に、被告は、手術成績の内容が悪い場合には、患者家族が希望しても効果の乏しい手術を拒否する選択肢も医師に残されている旨主張するが、後記認定のとおり、本件では午前一一時ころの時点で転医の上緊急に本件外科的手術を実施すれば、美智保にはある程度の救命の可能性が残っていたものと認められるから、被告の右主張はその前提を欠くものであって採用することはできない。

(四)  以上認定した本件転医義務は、本件当時の坂本病院と同規模でしかも第二次救急指定病院に指定された医療機関においては一般的な臨床医学の実践における医療水準に照らして当然に認められるべきものであるところ、本件において、被告は前記判示のとおり本件転医義務を有するにもかかわらず、右義務を怠り、循環器病センターからの収容の連絡を待って漫然と保存的療法を継続し、午後六時三〇分過ぎに至りようやくツカザキ病院に転医させたのであるから、被告には、本件転医義務を怠った過失があったというべきであり、他に前記各認定及び判断を左右するに足る証拠はない。

三  争点3及び4について

1  前記二2(二)で認定した事実に証人江原一雅の証言及び鑑定の結果を総合すると、脳挫傷の予後につき次の事実を認めることができる。

脳挫傷の患者が外科的手術を受けた場合において、死亡率も含む患者の予後に最も影響を及ぼす要素は意識障害の程度であるが、意識障害の強さと持続期間は脳挫傷の損傷の程度とほぼ比例し、意識障害が初期より非常に高度の場合には予後も不良となる。その他にも血腫ないしは出血の量、脳幹の圧迫状況が外科的手術の成績を左右する要素となりうる。

又、頭部外傷における予後に関する研究として、外国の研究報告の中には、手術直前の状態における意識レベルがJCSで二〇〇点(GCSで四ないし五点)で脳に硬膜下血腫、硬膜外血腫以外の局所病巣(脳挫傷、脳内出血)が存在する場合の死亡率を約五五パーセント、意識レベルがJCSで一〇〇点(GCSで六ないし八点)の場合の死亡率を約二五パーセントとするジェナレリ教授の報告、アメリカの多施設での共同調査の結果GCSで四、五、六点の場合における死亡率が順に五六パーセント、四〇パーセント、二一パーセントであったとするマーシャル教授等の調査がある。

2  そこで、本件における美智保の予後について検討するに、前記二1で認定した美智保の症状に証人江原一雅の証言及び鑑定の結果を総合すると、

(一) 美智保は、本件初診時以降死亡に至るまでの間、一貫して昏睡と評価しうる意識障害の状態にあり、意識清明期がなかったこと

(二) 午前一一時ころの美智保の脳の所見は、脳挫傷、脳内血腫、硬膜下血腫とくも膜下出血という一般的に予後が悪いとされている重症の複合頭蓋内血腫であったこと

(三) 午前一一時ころにおいて美智保は既に天幕ヘルニアという極めて重篤な状態にあったこと

(四) 本件において鑑定を行った鑑定人江原一雅の美智保の予後に関する意見も、第二回CT検査後直ちに転送して二時間以内に開頭手術が適切に行われた場合の死亡率は二〇から五六パーセントの範囲内にあり、総合的に判断すると約四〇パーセントと推測できるとの見解を有していること

がそれぞれ認められ、これに右1認定の医学上の知見に照らすと、本件において、仮に被告が第二回CT検査結果判明後直ちに本件転医義務を果たしていたとしても、美智保の死亡を回避しえた高度の蓋然性を認めることはできず、その他、本件全証拠によっても被告の本件転医義務違反と美智保の死亡の結果との間の相当因果関係を認めることはできない。

したがって、原告らの本訴請求のうち、美智保の逸失利益、美智保の慰謝料中死亡を理由とするもの及び葬儀費用については、その余の点について判断するまでもなく理由がない。

3  しかしながら、他方、人の生命及び健康を管理すべき業務に従事する者たる医師は、その業務の性質に照らし、医療機関の規模等その性格に応じて要求される診療当時のいわゆる臨床医学の実践における医療水準に従い最善の注意義務をもって患者を治療しなければならず、仮に医師の治療の懈怠と患者の死亡の結果との間に相当因果関係が認められなくとも、患者の救命の可能性が絶無ではなかったのに、医師が右義務に違反して誠実な治療を怠った結果、患者の救命の可能性を奪った場合には、医師において患者の適切な治療を求める可能性を侵害したものと評価できるから、これによって患者側の被った精神的苦痛を慰謝する責任があるというべきである。

これを本件についてみるに、前記認定のとおり、午前一一時ころにおける美智保の意識障害の程度はJCSで一〇〇ないし二〇〇点と救命可能性を考慮する上で絶望的な意識レベルとまでいえないこと、対光反射は消失しているものの瞳孔散大は発現しておらず、自発呼吸も残っていることからすれば、右時点において既に脳幹障害が不可逆的な状態に至っていたとまで認められないこと、本件鑑定人も美智保に約六〇パーセントの救命可能性が残っているとの見解を示すとともに社会復帰の可能性があることも否定していないことを総合考慮すると、被告が本件転医義務を果たしていれば、美智保において、最終的に救命し得たとまでは認め難いものの、その可能性もある程度存在し、少なくとも同人の死期を遅らせ、その間に適切な治療を受けて症状が改善する機会と可能性は有していたと推認することは十分可能である。

しかるに、前記判示のとおり、被告の美智保に対する本件初診時から転院までの間の経過観察はそれ自体十分なものであったとはいえないし、美智保にとって救命可能性のあった唯一の転医の機会ともいえる第二回CT検査後、その結果について病態の的確な把握を誤り、結局美智保の全身状態が絶望的となった午後六時過ぎの時点においてようやく転医手続を行った被告の過失行為は、美智保及び原告らに対する不法行為を構成するものといわなければならない。

そうすると、美智保は、被告の本件転医義務違反により適切な治療を受けて症状を改善する機会と可能性を奪われたものであり、同時に原告らにおいても、より良好な予後を期待するために美智保に最善の治療を受けさせたいとの肉親の情として当然の期待を奪われる結果に至ったものであるところ、前記判示のとおり、このような適切な治療を受ける期待も又治療を求める患者及び親族らの期待として法的保護に値する利益であると考えられるから、被告には、美智保及び原告らが右利益を奪われたことにより同人らに生ずる精神的損害を賠償すべき義務があるというべきである。

4  損害について

本件における被告の義務違反の態様及び程度、本件受診経緯、美智保の救命可能性の程度その他本件口頭弁論に現れた一切の諸事情を考慮すると、その精神的苦痛に対する慰謝料としては、美智保については四〇〇万円、原告らについては各一〇〇万円であると認めるのが相当である。

5  原告邦子が美智保の妻、原告晃彦、原告行則、原告光子及び原告純子が美智保の子であり、いずれも美智保の法定相続人であることは当事者間に争いがないから、原告邦子が美智保の相続分の二分の一を、その余の原告らが同じく各八分の一を相続したことになる。

したがって、原告邦子は美智保の損害のうち二〇〇万円を、原告晃彦、原告行則、原告光子及び原告純子が美智保の損害のうち各五〇万円を相続した。

以上によれば、本件における原告らの各損害は、原告邦子につき右相続により取得した二〇〇万円と固有の慰謝料一〇〇万円を合計した三〇〇万円、原告晃彦、原告行則、原告光子及び原告純子につき各右相続により取得した五〇万円と固有の慰謝料一〇〇万円を合計した一五〇万円となる。

6  弁護士費用について

弁論の全趣旨によると、原告らが本件訴訟の提起及び追行を原告ら訴訟代理人らに委任し、相当額の費用及び報酬の支払いを約束していることを認めることができるところ、本件事案の性質、追行の難易度、審理の経過及び認容額等を考慮すると、原告らが本件医療事故と相当因果関係のある損害として賠償を求め得る弁護士費用の額は、原告邦子につき三〇万円、原告晃彦、原告行則、原告光子及び原告純子につき各一五万円が相当である。

四  結論

以上によれば、原告らの本訴請求は、被告に対し、不法行為に基づく損害賠償請求権に基づき、原告邦子につき三三〇万円、原告晃彦、原告行則、原告光子及び原告純子につき各一六五万円並びに右各金員に対する本件不法行為の日である平成三年一一月二二日から支払済みまで年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める限度で理由があるから、右の限度でこれを認容し、その余の部分はいずれも理由がないからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、九二条本文、九三条一項本文を、仮執行の宣言につき同法一九六条一項を各適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 黒田豊 裁判官 鵜飼祐充 裁判長裁判官 寺崎次郎は転補につき署名捺印することができない。裁判官 黒田豊)

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